にっしんの戦国時代

ID番号 N3096

更新日:2023年06月12日

岩崎城のあらまし

岩崎城の外観の写真

 岩崎城は日進市の戦国時代の様子を今に伝える城で、市内において唯一現存し、また最大規模をもつ貴重な遺跡です。中世城郭の特徴である土塁や空堀をよく残しており、日進市付近一帯を勢力範囲としていた土豪・丹羽氏の歴史を今に伝え、また日本史上重要な出来事として記憶される小牧・長久手の戦いにおいては、その勝敗を左右する戦略地点としての役割を果たしました。

史跡の概要

本丸跡には6世紀の古墳の遺構も残しており、当地の有力者に古くから注目されていた場所でした。室町時代末に始まると考えられているこの城は尾張国の東端、国境付近を守る織田信秀の支城でした。岩崎は尾張、三河間を往復する街道の要衝地であり、城下は「市場」の地名を残すことからも交易の場として栄えたものと思われます。

 文明年間から当地方の土豪であった丹羽氏四代(約60年間)の居城となりました。天正12年(1584)、羽柴(のちの豊臣)秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が戦った小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は後者に属し、犬山方面から岡崎を目指した羽柴方の軍勢の行軍を阻止しようとして落城するなど、一族を犠牲にしながらも戦功をたて、徳川氏に認められていきました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い参戦後、地方の土豪階級から1万石の大名へと昇格し、城も三河国伊保(現豊田市内)へと移ったことにより岩崎城は廃城となります。その後、城跡は竹薮などの雑林に覆われ比較的その遺構を良く保つことになり、昭和62年城址公園として整備され現在に至っています。

1.岩崎城の創設

岩崎城の隅櫓の礎石跡

岩崎城築城初期の遺構である隅櫓の礎石跡。

 正確な築城年代は不明ですが、尾張国勝幡(しょばた)城(愛西市)主・織田信秀(織田信長の父親)の支城としての記録が最も古い時期のようです。三河国岡崎城主松平清康(徳川家康の祖父)は享禄2年(1529)(年代は諸説あり)、尾張国に進出するため荒川頼宗の守る岩崎城を落としいれます。

 清康はこの後岩崎城を足がかりに尾張侵攻を図りますが、「守山崩(くず)れ」にて死去し、これをきっかけに織田、松平氏の勢力が岩崎城に及ばなくなった状況が生じたと思われ、本郷城(日進市本郷町)主・丹羽氏清(うじきよ)が天文年間(16世紀前半)、岩崎城を占拠したことにより、以後丹羽氏四代の居城となります。

守山崩れ…天文4年(1535)12月5日 三河国岡崎城主、松平清康が尾張国守山(名古屋市守山区)に出陣中、家臣に殺され、松平勢が敗走した事件。この事件を契機に、松平氏はその力を失い、家督を継いだ松平広忠は、その嫡男である竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏に差し出すこととなった。

横山の戦い

 『丹羽氏軍功録』には天文20年(1551)織田信長が岩崎城を攻撃しようとしたところ、丹羽軍が「横山」(日進市岩崎町)の麓にて待ち伏せし、これを撃退したことを伝えています。この戦いは、本家の岩崎城主・丹羽氏識(うじさと)に対して分家の藤島城(日進市藤島町)主・丹羽氏秀が岩崎城乗っ取りを企てたもので、信長はこれに援軍として頼まれたかたちとなったものです。信長は当時18歳でした。

2.岩崎城主・丹羽氏次

岩崎城主である丹羽氏次の銅像

 丹羽氏次は織田氏(信長・信雄(のぶかつ)親子二代)に仕え、小牧・長久手の戦いにおいては弟氏重(うじしげ)と姉婿の加藤景常(かげつね)に岩崎城を任せて徳川家康の布陣する小牧に参陣、長久手方面への道案内を勤めるなど活躍します。織田信雄に次いで尾張領を引き継いだ豊臣秀次に仕え、慶長5年(1600)関が原の戦いでは徳川方として参戦、戦功をたてました。これが認められて尾張国岩崎の土豪から三河国伊保(豊田市保見町)へ一万石の大名として栄転し、これ以降丹羽氏は徳川家康に仕え、江戸時代には譜代大名として各地に国替えを重ね、そして明治維新を迎えました。

3.小牧・長久手の戦いと岩崎城

岩崎城の空堀跡

空堀跡。岩崎城は築城当初から水堀ではなく空堀でした。

  「小牧・長久手の戦い」 天正10年(1582)、本能寺の変における信長の死後、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉は信長の後継者としての地位を築きつつありました。 これを不満とする信長の二男信雄(のぶかつ・長島城主)が信長の同盟者であった遠江国(静岡県)浜松城主徳川家康に援軍を頼み、戦いを挑みます。 天正12年(1584)3月、犬山城まで進出してきた羽柴勢に対し、家康は小牧山城に本陣を置き、こうして小牧・長久手の戦いが始まりました。しかし本格的な戦いには至らず、両軍は対陣したままの状態が続きました。

4.三河「中入」作戦

 膠着状態を打開するため羽柴方は別働隊をひそかに、かつ敏速に家康の本拠でもある岡崎まで進軍、城下に放火して後方攪乱を謀る「中入(なかいり)」といわれる作戦が三好秀次(秀吉の甥・後に養子になる)を大将として決行されます。この三河へ向かう作戦ルート上に岩崎があり4月9日早朝、その先鋒をいく池田恒興は敵対してくる岩崎城兵と戦闘に入りこれを落とします。ちょうどその頃、小牧から丹羽氏次を先導役に追撃してきた徳川勢が羽柴勢の最後尾を行く三好隊に追いつき戦いを始めます。戦局はこれを知り引き返してきた前部隊と追撃を続ける徳川本隊とが長久手で決戦となり、池田恒興・元助親子、森長可といった羽柴方の有力な武将が戦死し、徳川・織田方の勝利に終わります。

 小牧・長久手の戦いにおいて家康は、当時圧倒的に軍事力の面で優位をほこっていた羽柴軍に戦いを挑み、これに長久手で勝利した事実を残しました。このことから、天下統一を果たした秀吉配下の武将におさまった後も、その中で重要な位置をしめることができました。この戦いは将来、家康が天下人として徳川幕府を開くに至るまでの、大きな岐路となる重要な出来事であったといえます。

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