教育委員コラム
令和7年4月
集金と草刈り
数年前に65才になりめでたく老人会へ加入した。この会費は地区の係が一軒一軒家を回って集金してくださる。大変なので口座引き落としにしたら、楽になるのにという意見があるそうな。
あるとき、老人会の会長に会ってこの話をした。たとえ少額な会費でも年に1回顔を合わせて、会員と言葉を交わし元気に暮らしているか様子を尋ねるなど、安否を確かめる大事な仕事の一つである。本人がいなくて、家族から入院や介護施設へ入所しているというような話も聞けるかもしれない。だからこれからも続けていくという。会費集めは大変だけど手間を惜しんではいけない本当に大切なことだと改めて思った。
もう一つ同じような話がある。毎年7月末に排水路の草刈り、整備を実施している。市内の中で実施している区はもう数えるほどしかないらしい。早朝6時から作業を始めるが、暑くて熱中症が心配、参加者が高齢化し草刈り機の操作に不安、深い側溝に落ちて怪我をするおそれ、マムシが出て危険などがあり、年々参加する町が減ってきたようである。そこで、そろそろ草刈りをやめるべきではないかという意見が私の地区でも出た。そうしたら、先輩が、年に1回顔を合わせる大切な機会なので、たとえ時間を短くしてもやるべきだ。極端な話をすれば、お年寄りは顔を見せるだけでもよい、歩けるなら何もしなくても一緒に付いて散歩するだけでもよい。とにかく、みんなが顔を合わせ語らい、お互いの無事を確認し合うことが大切だ。この地区だけでも続けていきたいと意見を述べられた。私もまったく同感だと思った。
教育のDX化が急速に進み、学校の働き方改革がよりよい方向に向かいつつある。教員と児童生徒、教員同士、児童生徒同士、教員と保護者などの関係において、顔と顔を合わせ、表情を見て、声の大きさ調子を聴き、匂いを嗅ぎお互いにそれを感じ合いながら話をすることの大切さを時には思い返す必要があると思う。
令和7年4月 教育委員 武田立史
令和7年2月
ご近所づきあい
昨年10月に教育委員二期目を迎えました。一期目はあっという間の4年間であり、ひたすら勉強させていただく日々でありました。日進市の教育に携わらせていただけることをありがたく思い、市民のみなさまに寄り添えるよう全力で邁進してまいりますので、引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、私は毎日岩崎川沿いを朝晩1時間ずつ愛犬と散歩します。その際さまざまな人とすれ違うのですが、学区である北小学校や日進中学校の子どもたちは、元気の良い挨拶やにこやかな会釈してくれることが多く、その健やかさにとても嬉しい気持ちでおります。
そんな中で、いつも犬を撫でてくださるご夫婦が、最近ご主人一人で散歩されるようになっていることに気づきました。奥様はどうされたのかと心配になり、あまり立ち入ったことをお伺いするのも失礼かと思いつつもお声かけしたところ、寒いから留守番をしているだけで元気だというお返事に胸をなでおろしました。
昭和の時代には普通にあったご近所づきあいが失われつつある中、この辺りは比較的それが残っています。以前には、朝のラジオ体操でお姿の見えなかった一人暮らしのご高齢の方を、体操仲間が安否を気づかってご自宅まで訪ね、転んで動けなくなっておられるのを発見されたことがありました。また、近所の子どもたちが揉めていると、見かけた大人はまずは話を聞き、ときには叱ることもあります。昨今、我が子ではない子どもを叱るというのは敬遠されがちですが、本来なら大人として、人生経験の浅い子どもに向き合うのは大切なことです。地域の子どもは保護者の方や学校の先生だけではなく、地域全体で育てていくのが望ましいと考えます。
ご近所づきあいは面倒だという考えが多くなってきたのは、昔と比べて誰もが忙しくなり、心の余裕を持てずにいるからではないでしょうか。でも、どんなことでも面倒臭いと呼ばれるものの中に豊かさがあるのです。私自身も、近所の方々に数えきれないほど助けていただきました。世の中には孤独感にさいなまれ、SNSでつながっていないと不安で仕方がない子どもや若者が沢山います。それが救いや居場所となっている場合もあるものの、あまりにも依存してしまうのは危険です。また年代を問わず、コロナ禍で私たちは人と人とのリアルなつながりの大切さを再確認しました。
令和の時代だからこそ、互いに一歩踏み出して関わり合うことで、より豊かな人生を目指すことができるはずです。そのためにも、学校教育や生涯教育において、出会いやつながりの場と機会を増やしていけるよう努力してまいります。そしてその中にご近所づきあいを改めて加えていただけたら、こんなに心強いことはありません。
令和7年2月 教育委員 市来ちさ
令和6年12月
「適当」
人間は、とても「適当」にできています。
理科の授業では、よく子どもたちに伝えていましたが、人間は「適当な視力」を持っているために「モノをモノとして認識できる」ということです。顕微鏡のような精度でモノが見えたら?ひょっとしたら、微生物やウィルスが良く見えてしまい気持ちが悪くなるかもしれません。さらに精度の高い電子顕微鏡のような精度になると、「分子や原子」が見えたり、モノがモノとして認識できず「波動や揺らぎ」としてしか認識できなかったりすると言われています。
すなわち、人間の体の中を突き詰めたミクロの世界も「小さな宇宙」であり、「実際の宇宙」と同様に一定の距離を取りながら外から俯瞰して見たり考えたりしなければ、何が「モノ」で何が「空間」なのかもわからない世界になってしまうのですね。
そう考えると、人間の「適当な視力」が生きていくうえで如何に大切なのかが分かります。視力が「適当」だからこそ「モノ」として見えるのです。細かすぎると見たくない「モノ」まで見えてしまうし、大まかすぎると見たい「モノ」が見えないのです。「人間」という生き物は、あらゆる「能力」において「適当」な能力を持っていると言われています。神が与えた「奇跡の能力」という人もいます。私は、この奇跡の「適当」な能力に感謝しながら生きていきたいと考えています。
令和6年12月 教育長 岩田憲二
令和6年10月
スポーツが与える感動と魅力
セーヌ川が舞台の派手な開会式から始まったパリ五輪、連日深夜まで楽しませてもらった。17日間の日程を終え、日本選手団は金メダル20個と大活躍、メダル総数も歴代2位の45個を獲得するメダルラッシュに沸いた熱いこの夏だった。
感動のパリ五輪で印象深い出来事は、やはり陸上女子フィールド種目やり投げの北口榛花選手を一番に挙げたい。また、団体での体操競技や卓球などチーム力のまとまりと各個人の役割を十分に発揮し栄光をつかんだ選手達の身体能力と精神力の強さに心から敬意を払いたい。一流アスリートの必須条件は、運動能力は勿論のこと豊富な練習量・精神力の強さ・忍耐力・状況の分析や諦めない心を挙げている。
特に、北口選手は学生時代に単独でやり投げ王国チェコに渡る決断をし、今回の金メダリストに。幼少時代からスポーツに親しみ、小学校では筋力も無くごく普通の選手だが、負けず嫌いな少女だったそうだ。中学では、一つの種目だけでなく水泳やバドミントンの二足のわらじで活躍、それでも全国大会に出場している。そして、やり投げ競技との出会いは高校時代だそうだ。このように小・中学校時代のスポーツ経験は、何事があっても諦めない心や精神力で頑張ることの大事さを学び、今後の大きな成長の糧になっていったと思う。
今の部活動状況をみると、学校から地域移行へ方針転換していく現状に、運動する子供とそうでない子供の二極化が見られるようだ。これから関係される地域指導者のご協力と熱心な指導を期待したい。同時に学校での部活指導離れが心配されている中で、先生方の積極的な参加をお願いしたい。スポーツの素晴らしさや人間形成にも貢献し、誰もが楽しめ、人生を豊かにしてくれるスポーツ(気晴らし・遊び)を推し進めて頂きたいと思う。
令和6年10月 教育委員 小林 秀一
令和6年8月
生涯にわたる文化の醸成
教育委員を引き受けてから、いろいろな経験をさせていただいた。そのうちの一つが日進市文化協会所属の連盟展等への参加である。毎年、春と秋に市民ホールで開催され、「音楽」「舞踊」「絵画」「華道」「書道」「手芸」「写真」「盆栽」など幅広く、日進市内で活動されている方々の力と想いのこもったパフォーマンスが発表される。すべての展覧に参加できたわけではないが、これまであまり触れてこなかった「文化」に久しぶりに対面できる時間がもらえている。
小学生の頃の私は、いわゆる主要教科といわれる科目は得意であったが、体育や音楽は苦手、美術や書道は好きではあったが優秀というわけではなかった。良い成績が付かないひがみからか、受験に必要のない科目を学ぶのは無意味ではないかとか、正解のない多様な感性が問われる芸術に成績がつけられることにも疑問を持ったまま過ごしてきた。
今、私は人生の終末期を迎える方の自宅へ訪問する機会が多い。先日、がんの末期を迎えられた年配の男性のご自宅を訪問した際に、その方が学生時代に京都でドイツ哲学にはまっていたことや、銀行マンとして頑張ってきたことなどを明るく話す時間が持てた。一方で、ふと枕元のモーツアルトのCDが目に留まり、訪問したドイツで購入したというバイオリンも壁にかけてあった。ほどなく最後の時を迎えられたのであるが、臨終の場にモーツアルトが流れていて、とても穏やかな空気が流れていたのが印象に残っている。また、ある認知症の女性の部屋には、その方が書いた「書」がかかっており、本人は「これは誰の作品かね」といっていたりもする。
コロナ禍にあって、音楽や美術は真っ先に切り捨てられた。しかし、人間にとって本当に最後まで必要なものは「文化」ではないかと思う。医療も健康維持のためには必要ではあるが、終末期を迎える人やその家庭に「豊かさ」を与えるのは、「芸術」だと最近感じさせられている。そのような文化や芸術を醸成するには、人生を通じた普段からのつきあいが必要だ。多忙な日常生活で文化的余裕が排除されつつある家庭の中では触れる機会が少ない「文化・芸術」を紹介していくことは大切な教育であり、きっかけ作りであると、美術科目へのとまどいを持っていた学生時代の自分に答えてあげたいと思う。
令和6年8月 教育委員 伊藤志門
令和6年6月
教育委員になってみて
教育委員になって半年が経ちました。
保護者として、子どもを毎日当たり前のように学校へ通わせていましたが、それが教育委員会をはじめ、学校の先生や地域の方々のおかげだということを改めて感じました。 教育委員になる前は、教育委員会について、生真面目で保守的な運営をしているというイメージを持っていましたが、その認識が変わっただけでも、教育委員になってよかったと思っています。
特に驚いたのは授業の内容です。私が学生だった頃とは大きく変わっていました。
タブレット学習の導入、男女一緒に行う体育の授業、そして授業中の発表の活発さに驚かされました。特に印象的だったのは、子どもたちが自分たちでタブレットを使って発表資料を作成し、その資料を基にクラスの前で発表する姿です。
大人でも人前で自分の考えを話すのは難しいと感じる人が多いと思います。私自身もその一人なので、子どもたちが一生懸命に頑張っている姿を見て、非常に感心しました。
保護者代表の教育委員の一員として、日進市の教育に貢献できるよう努めて参ります。
令和6年6月 教育委員 𠮷田優香理
関連情報
この記事に関するお問い合わせ先
学習政策課
電話番号:0561-73-4169 ファクス番号:0561-74-0258
更新日:2025年04月01日