2021年4月18日 岩崎城フィールドワーク

ID番号 N11737

更新日:2021年04月22日

日進の歴史的遺産を深く学ぶ!

<市民スタッフ 三鬼一朗>
戦国時代の様子を今に伝える市の歴史的遺産「岩崎城」をより深く知ってもらうガイドツアーが18日、岩崎城址公園の一帯で行われました。岩崎城歴史記念館の学芸員内貴健太さんが戦国時代初期に始まるとされる城跡の各所を案内し、参加者は解説に耳を傾けながら600年余りの時の流れに思いをはせていました。
本丸があった歴史記念館から、目の下に広がる城郭の広大さを確認する

本丸があった歴史記念館から、目の下に広がる城郭の広大さを確認する

土を盛り上げて造られた本丸近くの櫓台(やぐらだい)(標高66メートル)から、周囲の堀の規模を見る

土を盛り上げて造られた本丸近くの櫓台(やぐらだい)(標高66メートル)から、周囲の堀の規模を見る

尾張国勝幡(現・愛西市)城主・織田信秀(信長の父)が16世紀初頭に城を築いたとされる岩崎の地は、尾張と三河を往来する街道の要衝にあたり、交易の場として栄えてきました。城の本丸跡には6世紀の古墳の遺構も残しており、古くから有力者に注目されてきた地だったということです。
日本の歴史上重要な出来事とされる小牧・長久手の戦い(1584年)で、勝敗を左右する戦略地点として役割を果たす岩崎城は、日進の一帯を勢力範囲としていた土豪・丹羽氏の歴史を刻みながら、関ヶ原の戦い(1600年)の後、廃城となります。その後300年以上も整備されることはありませんでしたが、城跡が竹やぶなど雑林に覆われたため遺構が比較的に良い状態で保たれることになったそうです。
岩崎城発掘調査の際に土塁の下から発見された6世紀初頭の円墳

岩崎城発掘調査の際に土塁の下から発見された6世紀初頭の円墳

岩崎城の戦い(1584年)で丹羽氏が討ち死にしたとされる場所

岩崎城の戦い(1584年)で丹羽氏が討ち死にしたとされる場所

フィールドワークは「岩崎城 縄張り」の絵図(1584年ごろ作成)を基に中世城郭の特徴とされる土塁や空堀をたどりながら、本丸や二の丸跡などを巡ります。城跡の発掘調査は岩崎城址公園が整備される2年前の昭和60年3月以降、平成22年5月まで4次にわたり行われ、遺構や多くの遺物が出土していて、ガイドの内貴さんは、岩崎城が広大で戦闘的な城であったことを裏付ける今後の調査を楽しみにしているそうです。
ガイドツアーの後半は、東西400メートル、南北300メートルもあった城の総構(外郭)と城下をたどります。小牧・長久手の戦いで城を守っていた当主・丹羽氏次の弟・氏重が討ち死にした場所や、往時の町屋、武家屋敷のあった一画などを巡り、この日十数地点で2時間にわたり、城を巡る歴史の数々を学びました。
築城当時は「搦手(からめて)」だったという裏門

築城当時は「搦手(からめて)」だったという裏門

昨年初めて一回行われた「中・上級者向けフィールドワーク」は、多くの要望に応えて2年目の今年は計四回の開催としましたが、第一回の今回は募集5組が受け付けを開始してすぐに埋まったそうです。今後10・12・2月に予定されているフィールドワークの他、「初級者向け 城歩きの楽しみ方」(5・11・1・3月開催)や、「初級第1回岩崎城検定」(5月)も行われることになっており、市の大切な歴史的遺産への関心が年々高まっているようです。催しの問い合わせは岩崎城歴史記念館まで。

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